村上 会社はどんなところだったのですか。

中嶋 当時は社員80人くらいの繊維問屋で働いていました。私は大学時代、コンピューターを専攻していたのですが、その頃は不景気でコピューター関係の企業の求人がなかったのです。困っていたら、繊維問屋の社長に声をかけていただいた。今の自分があるのはその会社のおかげです。そこで問屋街の商売のルールを叩き込まれました。その後は天から下がってきた糸をつかむたびに、どんどん仕事が大きくなっていきました。

村上 いろんな仕事をされてきたようですが、最初に転職したのはなぜなのですか。

中嶋 最初の会社で5年間お世話になり、勉強させていただいているうちに、もっといろいろなことがしたくなった。『内田洋行』という会社が営業マンを募集していたので応募したところ合格しました。それからは営業を学びました。営業が好きだったのでしょうね。3年半でその会社のトップセールスになりました。ラグビーをすることを許してくれる上司がいたからこそです。

村上 ラグビーが売り上げに結び付いた面はありますか。

中嶋 顔をすりむいたりしていると、話のネタになるし、お前はラグビーやっているんだから仕方ないな、と営業先の皆さんに可愛がってもらいました。そして、日本で一番難しいとされる神戸営業所の所長に任命されるのです。その時、人生が変わりました。

村上 何があったのですか。

中嶋 当時、神戸製鋼の部長をされていた亀高素吉さんに会ったのです。ラグビーの縁です。六甲クラブには神戸製鋼ラグビー部のOBもいましたから。一緒に食事をしたときに、私と亀高さんがある糸でつながっていたことが分かりました。

村上 亀高さんと言えば、神戸製鋼のラグビー部が日本選手権七連覇を達成したときの社長さんです。林敏之さん、大八木淳史さん、平尾誠二さんらを誘われた人ですから、七連覇には欠かせない人ですね。

中嶋 そうです。亀高さんは海軍の出身ですが、私の父も海軍だったので、それを言うと「どこだ?」と。清水の兵学校ですと答えたら「俺も清水の兵学校だ。もしかしたら、君の父親は俺の命の恩人かもしれない」とおっしゃった。それで、父と会ってもらったら、本当に深い縁でつながっていることが分かったのです。

村上 命の恩人とは、どういうことですか。

中嶋 うちの伯父が米内光正(海軍大将)の秘書官をしていまして、もうすぐ戦争が終わることが分かっていた。それで、優秀な人間を残そうと、兄弟で話したそうです。亀高さんは成績が良かったので成績順に戦地に送られる立場でした。しかし、父が優秀な人は残そうということで亀高さん他10名を戦争に行かせなかったんです。そこには、作詞家の星野哲郎さんもいたそうです。その息子が六甲クラブのラグビー選手として亀高さんに会った。不思議な縁ですよね。

村上 もし、そのとき亀高さんが戦争に行っていたら、神戸製鋼の七連覇もなかったかもしれませんね。

中嶋 間違いなくないでしょう。ラグビー部の強化に力を注がれましたから。まあ、そんな縁で神戸製鋼と内田洋行の商売も進みました。若い時に良い人に巡り合ったことが、いまにつながっています。ラグビーのおかげです。

*この続き(その3)は、7月20日(金)に更新します。

《経歴》
昭和43年 甲南大学卒業
滝本株式会社入社
内田洋行専務 PLUS常務 プレステージインターナショナル特別顧問 歴任
現在
株式会社サクセス サポート21 代表取締役社長
環太平洋大学 客員教授
六甲クラブOB会長

*FB・インスタ !いいね!お願い致します。
https://www.facebook.com/akids.rugby
https://instagram.com/akids.club

#ラグビー#rugby#ラグビースクール#akids#ワールドカップ#エーキッズ#ラグビーチーム#ミニラグビー#キッズラグビー#ミルキーラグビー#キンダーラグビー#ラグビーフェスティバル#ラグビーイベント#同志社香里#慶応#内田洋行#元専務取締役#中島光正#甲南大学#PLUS#Biznet#ビズネット#プレステージインターナショナル#特別顧問#コンサル企業#株式会社サクセス・サポート21#代表取締役社長#増田屋コーポレーション#PFC#テリンク#スタンダード・スタジアム#環太平洋大学#客員教授#六甲クラブ#チャーターメンバー#OB会長#経済同友会#全日本実業団対抗ゴルフ選手権#キャプテン#akids.club/#オーバルロード#村上晃一#夢インタビュー#ゲスト